季節の柄って難しい?

着物精神論

着物を着るようになって聞かれるようになったのは、描かれている柄と季節の関係です。

「着物って季節の柄じゃないとダメなんでしょ?」

「桜の季節に桜を着ちゃいけないって本当?」

同じような疑問を持つ方も少なくないでしょう。

着物に縁がなければ季節の柄の楽しみ方など知らないし、聞きかじった知識だけでは着物界のそのような考え方など窮屈なものに感じてしまうでしょう。

決まり事ばかりと目を逸らす前に、ちょっと視点を変えて考えてみるのはどうでしょうか。

四季の楽しみ方

現代は温暖化で春も秋も短く感じ、冬が終わったと思ったらもう夏のような気温であったり、春が来て桜の咲くような時期に真冬の寒さだったり、時には雪まで降ったりします。

梅や桜に積もった雪に物珍しさのあまり写真を撮ったなんて人もいるのではないでしょうか。

四季がはっきりと移り変わる日本で自然を愛してきた人たちの文化は、時に窮屈に感じるかもしれません。

着物に詳しくなくても、柄によってはその季節じゃないと着れないということを聞いたことがあるなんて人も多いでしょう。

「先取りして着るのは、桜を愛し、咲くのをまだか、まだか、と心待ちにするからこそ。そして、満開になったら着ないというのは、どんなに素晴らしい桜柄の着物でも、本物には敵わないという考えがあるからです。」(世界のビジネスエリートを魅了する教養としての着物:上杉惠理子著より)

一般的に四季の花々、植物を描かれたものでも、枝葉が描かれた所謂写実的な(リアルに描かれた)ものはその季節、あるいは少しだけ先取ると『粋』とされています。

そして季節が終わっても着るというのは『野暮』という考えがあります。一方でイラスト化されたような花や花びらは季節問わず通年着ても問題はありません。

日本人が愛する桜柄の着物も「季節もの」とされる代表的な柄です。しかし、桜は日本の花だから一年中着ても問題ないと言う人もいます。

自然を愛し自然への敬意をこめて描かれる着物の柄は、その時しか楽しめないからこそ魅了されるものがあります。

ですが逆に、四季折々の植物を同じ着物に描くことで、四季を気にせず着物を楽しんでほしいという職人さんの心も見えてくる作品もあります。

私自身、着物になると「こうでなければならない」「してはいけない」となってしまっていた部分もありますが、それだけではもったいないと思うようになりました。

季節限定のお菓子のように季節の柄が楽しめたらもっと着物のある生活が豊かになります。要はその人がどう着物を着るか、なんです。

もちろん、自分が主役の場に限ります。

自分の思いと、相手や相手の大切な人にどう思われるかはまた別なので。

何が主役なのか

『粋』は気がきいて見える様子。

『野暮』はその場に応じた適切な対応ができない様子。(新明解国語辞典第六版 三省堂より)

つまり、他者を中心とし他者を重んじて行動する人のありかたを言っているのではないか。

そう考えると粋を良しとする着物界では、自分は主役ではなさそうです。

季節を重んじて柄を変える着物。それは季節を主役とした着方なのでしょう。

着物に詳しくない人に季節を楽しむ着方を説明する時、下記の例えで納得してもらうことが多いです。

・桜が満開の時に桜柄を着ないのは、結婚式に白いドレスで参加しないのとほぼ同じ。何を着たところで主役の美しさには敵わない。だからこそ同じ桜は身に纏わない。

・満開までの期間にその花の柄を着るのは、ハロウィンが終わった直後からクリスマスを楽しみに待つのと同じ。

・早いうちからその花柄を着ないのは新年が明けた直後から節分の用意をしないのと同じ。

・季節の違う花柄を着ないのは、暑中見舞いに桜のメッセージカードを贈らないのと同じ。

その季節を楽しもうとしているからこそ、その季節を身近に感じて身に纏おうとするのです。

テーマパークで売っているカチューシャを身に着け、パーク内を回るのと同じ感覚だと思っています。

主役は自分

季節を主役にすると自分の考えだけではなく他者の考えも考慮した着姿になりますが、一方で自分の『好き』が主役になる時、自分を主役にする時には、季節のあれこれは関係ありません。

季節を楽しんだ着姿にするもよし。

自分の好きな花柄を着るもよし。

季節に囚われず、自分の好きな柄を身に纏った人の自信に溢れた着物姿もまた、日本の四季に負けないほど美しいものであるはずなので。

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