生まれること・死ぬことを含めての、人間生活において味わう、大きな苦しみの意。(辛いことが多くて)非常に苦しむこと(新明解国語辞典 第六版より)という意味で使われます。
仏教における苦しみとありますが、苦しみという意味では大なり小なり人によって感じ方は違いますよね。
着物の世界も自分から飛び込んだ人以上に、飛び込まされた人は大変だろうなっていう話を着付け教室で先生としました。呉服店に務めるつもりじゃなかったけど配属でそうなってしまった新入社員の方々は、本当に一から、何ならゼロから覚えないといけない。着物は左前、そこから覚えなきゃいけないから覚えることが本当に多い。興味がなければ頭にも入ってこないので、毎年見ているけれど本当に大変そうだと。着付けの手順はもちろん、着物の種類も格も、使う道具の種類も数も、着物に縁がなければ覚えなくていいものですからね。
かくいう私も着物に特別縁があったかと言われるとそうではありません。
七五三に着て、部活動対抗リレーで浴衣を着て、成人式の前撮りで着て、大学の卒業式に着た程度です。七五三では子供ながら嬉々として高いレンタル着物を選び、リレーでは一人だけノリノリで浴衣を着て走り、成人式には行きたくないけど振袖は着たいから写真撮影だけでもと親に強請り、卒業式ではレンタル袴のセットを予算内で選んだきり、社会人になってからは着物を着る機会は一度もありませんでした。
でもやっぱり覚えていたんですよね。右手左手で着て左を前にすることを。何より、着物を着て鏡を見た時のわくわく感を。
着物が傍にある生活にするために自分から行動した人たち、目的は様々です。
頂いた着物を自分で着るため。
娘さんに振袖を自分で着せるため。
着物の仕事をするため。
有料の着付け教室に通うのだから、大なり小なり覚悟を持って皆さん教室に通われています。やらされているものでもないので、通い続けるのもやめるのも自分の意思一つで決められます。自分から飛び込んだ人たちでも最初はわけがわからないまま、先生の手を借りて、なんとか授業の時間内で自分の着姿を完成させています。
頭を使って、汗だくになって、何なら髪の毛もぼさぼさにして、ようやく鏡に映る自分を見るんです。苦労した先の自分の姿って美しいとは限らないけれど、でも、着物を着た自分の姿を見た皆さん、みんな綺麗に笑っているんですよね。
衿が左右対称とは限らないし、何なら隠れてるし、お太鼓なんか見るからにアンバランスで。理想の着姿には遠いかもしれないけれど、キラキラした目で鏡を見てお互いに写真を撮って、自分を肯定していく。
着物の魅力は、そこにもあるような気がします。
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